あゆみ
太平洋工業のあゆみ
1930年(昭和5年)に自動車用バルブコアの国産化で創業した太平洋工業は、戦後激動の時代を乗り越え、自動車用プレス・樹脂製品、電子・制御機器製品、次世代バルブのTPMSへと事業を拡大し、グローカル企業(地域に生きる世界企業)として進化を遂げました。

バルブコアのパイオニアとして
1930年、日本にまだ国産車が年間437台しか走っていなかった頃、創業者の小川宗一は、日本で初めて自動車用タイヤに使用されるバルブコアの開発に挑み創業。「精密時計をつくるよりむずかしい」と言われたバルブコアの国産化を果たす。鍵となったのは、実用新案権の取得だった。
1930年8月 太平洋工業合名会社を設立し、自動車用バルブコアの製造を開始
創業者の小川宗一は、1930年、29歳の時に、一宮市で毛織業を営む兄の出資を得て、資本金5,000円、従業員10人で、岐阜県大垣市に「太平洋工業合名会社」を設立しました。
国内の自動車生産台数はわずか450台、自動車部品のほとんどが輸入品に頼っていた時代に、自動車産業の先見性を見極め、日本で初めて自動車用バルブコアの国産化に踏み出しました。



大垣市西外側町の7軒長屋を改造した工場。
1934年10月 バルブコアの空気もれ検査機を開発
創業当時、技術もノウハウもない中で、輸入品のバルブコアを真似て造ることは容易ではありませんでした。空気という目に見えないものが相手のため、「バルブコアは精密時計を造るよりむずかしい。それを日本で造れるわけがない。」と外国人技師から言われるほど、技術的にも難しいものでした。
製品化までには長く苦難の道のりが続きましたが、1934年にようやくバルブコアの「空気もれ検査機」を開発したことによって、品質の均一化が保てるようになりました。


1936年8月 バルブコアの実用新案権を取得
1936年、バルブコアの軸を固定させる頭部のブリッジ開発で実用新案権を取得したことにより、後発メーカーの進出を抑えて国内市場を独占し、海外への輸出も拡大。世界水準の品質・技術を確立し、バルブコアのパイオニアとして、飛躍的な発展を遂げていきました。


バルブコア頭部を改良し、チェックバルブの名で特許局に登録された。

1938年4月 太平洋工業株式会社に改組し、工場を大垣市美和町に新築移転
既に国内市場を独占していたバルブコアは、需要が拡大し、殺到する注文をさばききれなくなっていったため、1938年、岐阜県大垣市美和町に新工場を建設すると同時に、資本金15万円の「太平洋工業株式会社」に改組しました。
当時は女性社員が多く、「嫁が欲しければ太平洋へ行け」と言われるほどだったといいます。



戦時下の発展と波乱に満ちた戦後の再建
1941年3月 桜井自動車工器株式会社を吸収合併し、タイヤバルブの生産を開始
バルブコアとタイヤバルブは、品質保持や価格安定という面からも一緒に製造するのが望ましく、タイヤバルブの総合メーカーをめざしていた太平洋工業は、1941年、東京のバルブメーカー「桜井自動車工器」を吸収合併し、バルブコアとタイヤバルブの一貫生産体制を確立しました。


1943年10月 軍需省の指定工場となる
戦争が進むにつれ、自動車産業は航空機を中心とした軍需産業へと転換させられ、バルブ製品の需要は減っていきました。
当社は桜井自動車工器との合併によって航空機用リベットの製造を開始していたため、次第に軍需品製造を本格化させ、軍需工場としての色合いを濃くしていきました。空襲で全国各地の工場が焼失する中、戦火を免れていた当社は、終戦末期までただならぬ忙しさであったといいます。


1949年9月 労働争議による工場閉鎖
1945年に終戦を迎え、当時1,500名いた従業員はすべて帰郷し、疎開工場も閉鎖となりました。その後、会社再建の道を図りましたが、当社にも県内のトップを切って労働組合が結成され、1948年に労働争議が勃発。法定闘争が続いて経営は窮迫し、ついに1949年9月、当時の従業員300名全員が退職し、工場閉鎖に追い込まれました。
1947年9月 パシフィック商工株式会社を設立
苦難が続いた戦後の再建時代にあって、太平洋工業の危機を救ったのが1947年に設立された「パシフィック商工」で、創設者はのちに3代目社長となる 小川哲也です。
「金属・繊維・雑貨など売れる物は何でも売ろう」「パシフィック商工自身で協力工場を使って製品を造ろう」と旗揚げした小さな会社は、若さとバイタリティに溢れ、戦後の荒波の中にあっても順調に成長していきました。
ついには、トヨタ自動車の協力工場としてプレス加工分野へ進出し、1949年にプレス製品第1号として、トヨペットSAのホイールキャップを納入。今日のプレス事業の礎を築く大きな役割を果たしました。


戦時下の発展と波乱に満ちた戦後の再建
1953年5月 パシフィック商工株式会社を吸収合併
1950年5月、太平洋工業は減資してようやく工場を再開しましたが、社員わずか35名での再出発であったため、大きな伸びは期待できず、戦後の“特需”の恩恵を受けたのは「パシフィック商工」でした。
自動車メーカーの生産合理化が進むにつれ、部品は部品メーカーから直接買うのが原則という意向が強くなり、「パシフィック商工はメーカーか商事会社か」という議論が交わされるようになったため、1953年、再び太平洋工業とパシフィック商工は合併し、戦後の再建が本格化しました。

1956年1月 生産性向上5カ年運動を開始
1955年、日本生産性本部視察団の一員として初めて米国経済界を視察し、日本との違いを目の当たりにした小川哲也(当時副社長)は、「世界を相手に商売をするには、今までのやり方を根底から考え直さなければいけない」と痛感。
世界的水準のバルブ工場に改造しようと「生産性向上5ヵ年運動」を断行しました。世界最新鋭機械を導入して設備の近代化を図り、バルブコアの生産高を世界第4位へと押し上げました。


1960年11月 大垣市久徳町に西大垣工場を新設
1959年、カラーテレビ、クーラー、カーは“3C”新三種の神器と言われ、マイカー時代の到来ともてはやされました。
既にトヨタ協豊会の有力メンバーとなっていた太平洋工業は、量産体制を整備するため、岐阜県大垣市久徳町に、大型プレスからめっき・塗装までの一貫生産を行う西大垣工場を建設し、プレス事業の拡充を図りました。


世界の太平洋をめざして
技術革新をめざした新製品開発
1961年、当社にとってはまったく異なる分野の画期的な新製品として、シュラウド式(熱風式)のカーヒーターを開発し、トヨタのパブリカに採用されました。
また、室内クーラーで使われる水を、もう一度冷やして使う冷却装置として、クーリングタワーを開発しました。地下水の枯渇や地盤沈下などで水の再利用が叫ばれるようになった時期、大きな注目を集め、住宅関連産業進出への足場を築く製品となりました。


会社発展をめざした株式上場
太平洋工業は、これまで個人経営的な色彩の強い企業でもあったため、社会性や大衆性を強めるとともに、事業拡充のための資金調達として、1962年10月、名古屋証券取引所第二部に上場を果たしました。
創業40周年を迎えた1970年には、更なる飛躍と発展を期して株式を昇格させ、東京証券取引所及び名古屋証券取引所第一部へ上場しました。


急ピッチの事業拡充
自動車業界の好況に呼応し、当社においても急ピッチで工場増設が進められました。
当社第三の柱として開発したカーヒーターは、温風式ヒーターがトヨタをはじめダイハツ、スズキ、日産等にも純正部品として採用されて需要が急増し、1966年に専用組立ラインが増設されました。
めっき工場や塗装工場に加え、バルブのゴム工場なども矢継ぎ早に増設され、急速に事業を拡大していきました。



1970年12月 トヨタ品質管理賞「優秀賞」受賞
戦後20年、「第二の黒船」とも言われる資本自由化に迫られ、更に合理化、生産性向上に努め、国際競争力の強化が求められる時代となりました。
当社も全社員が合理化意識を持ち、全社一丸となってTQC(総合品質管理)活動を推進。QCサークルによる活発な改善活動が行われ、1970年、トヨタ品質管理賞の第1回「優秀賞」の栄に輝くことができました。



経営の多角化
1972年11月 タイヤバルブ・バルブコアの拠点「北大垣工場」建設
1972年、岐阜県安八郡神戸町の工業団地にタイヤバルブ・バルブコアの最新鋭工場「北大垣工場」を建設しました。この時点において単一工場としては世界一を誇り、国際市場で十分勝負ができる生産体制が整いました。
バルブコアは、1966年に自動組立機を自社開発したことで品質・コスト・生産力などあらゆる面で画期的な伸展に繋がり、北大垣工場の誕生と自動化の進化によって、生産ベースは更に向上することとなりました。


多角化路線の再構築
自動車部品への依存度が高い当社では、早くから事業の多角化を検討していました。脱自動車部品という面で先鞭となったのは「太平洋電子工業株式会社」で、東芝との技術・資本提携によって岐阜県美濃市に設立し、シリコン・トランジスタの生産を開始しました。
また、住宅事業の拡充を図るため、東芝住宅産業との提携で新設した「安城工場」では、1971年から厨房用流し台「キッチンエース」の製造を開始し、年間生産台数は4万台にのぼりました。しかし、両事業ともオイルショック等のマイナス成長の影響を大きく受け、1978年には撤退を余儀なくされました。
一方、1972年にレジャーブームにのって設立した「太平洋開発株式会社」では、ゴルフ場(養老カントリークラブ)を経営し、ガソリンスタンドを経営する「太平洋産業株式会社」とともに、「脱自動車化」をめざした経営の多角化は、第三次産業の進出へと発展しました。


アイディアを活かした関連製品の開発
1970年代には、現在の制御機器製品や電子機器製品の礎となる新たな製品開発を積極的に行いました。既存技術を応用したガスケーブル用バルブや、カークーラー・ルームクーラー用の冷媒用としてチャージバルブを開発し、量産に成功しました。
続いてカークーラー用のアイドルアップ装置、冷蔵庫用電磁弁の製品化を行うなど、流体を中心としたコントロールバルブ及び小型弁専門メーカーをめざした新製品を次々と開発していきました。
食品機器の開発では、1974年、西ドイツ・ヘス社(当時)のトーストサンドイッチ自動販売機の特許実施権を取得し、当社設計による新自動販売機を製造。また、1975年にプラスチック容器を使用して食品を殺菌する「定差圧殺菌装置(Pパックシステム)」を発表したところ、食品業界で大きな反響を呼び、日本経済新聞のトップ記事に取り上げられる高い評価を得ました。


1977年9月 タイヤバルブ・バルブコアの第二拠点「美濃工場」建設
1977年、美濃市の遊休工場を増築し、当社二番目となるタイヤバルブ・バルブコアの専門工場 として立ち上げたのが「美濃工場」です。
当時、当社のバルブコアは国内シェア95%、世界シェアは20%近くにのぼっており、北大垣工場に天災や不測の事故が発生した場合のリスク回避として、第二の生産拠点の必要性が急務となっていました。美濃工場の新設によって、当時の生産能力は月産でタイヤバルブ1,000万本、バルブコア2,500万本へと上昇しました。

国内拠点拡充と国際化
メカトロ事業の推進
1981年、マイコン搭載エレクトロニクス製品の第1号として、「セントラルヒーティングコントローラ」を発売しました。また、社内技術者の養成を目的に作成したマイコン教材が、初心者向け教育教材として商品化され、1982年に「パシフィックマイコン教材モジュール」として発売されました。
更に、ボイラーコントローラの技術を駆使した電動リールコントローラを開発。電子制御応用製品の開発・設計から製造までを手がけるメカトロ事業の柱へと成長しました。こうしたメカトロ事業によって培われた技術は、車載電装技術や車両設計技術へと進化し、後に発表されたTPMS(タイヤ空気圧監視システム)開発の礎となりました。

1982年10月 プレス用金型の専門工場「養老工場」建設
1980年代に入ると、自動車にも個性や多様化が求められる時代となり、新型モデルの投入が頻繁に行われるようになりました。プレス事業にとって金型の精度は重要であり、金型の良し悪しが製品の品質や生産性を大きく左右します。
急増するプレス用金型の需要に対応するため、1982年、岐阜県養老郡養老町にCAD/CAMシステムやマシニングセンターなどの最新鋭設備を導入したプレス用金型の専門工場「養老工場」を建設しました。高度な金型加工技術は、当社のものづくりの基盤として太平洋工業を支えています。


1984年6月 台湾に海外初の拠点「太平洋汽門工業股份有限公司」設立
1980年代初頭、急激な円高進行によりバルブ事業の採算悪化が深刻化しました。海外進出は長年の懸案事項でもあり、モーターサイクル用チューブ生産世界一の市場を誇り、当社輸出の40%を占める台湾への進出が最優先と判断。1984年6月、台湾代理店として取引関係があった合泰貿易股份有限公司との合併で、バルブ事業初の海外拠点「太平洋汽門工業股份有限公司」を設立しました。
その後、業容拡大のためプレス事業がスタート。現在では國瑞汽車(トヨタ自動車の台湾現地法人)の有力プレス部品メーカーとして認知されるまでに成長しました。

バルブ事業のグローバル化加速
1987年に韓国で対外貿易法が施行され、チューブバルブが輸入制限品目に指定されることが判明しました。
また、米国では日本車の輸出規制枠拡大、MOS協議による米国製部品の購入義務付け等のジャパン・バッシングが加速し、更にタイでは大幅な輸入関税引き上げの動きがあり、このままでは長年築き上げてきた海外市場を失うことになりかねない事態に陥りました。
そこで急遽1987年、韓国に「太平洋バルブ工業株式会社」を設立、1988年には米国に「Pacific Industries USA Inc.」を設立、1989年にはタイに「Pacific Industries (Thailand) Co., Ltd.」を設立し、バルブ事業のグローバル生産体制の確立と海外シェア確保を図りました。

その後工場を新築し現在地へ移転

その後工場を新築し現在地へ移転

1990年11月 樹脂の専門工場「東大垣工場」建設
1980年代に入ると、自動車部品は軽量化と高意匠化対応のため、樹脂化が拡大しつつありました。主力製品であるホイールキャップにも樹脂化の波が押し寄せ、当社も樹脂部門への参入を決意しました。
トヨタのクレスタ用センターキャップを受注したのを皮切りに、ホイールキャップ以外の樹脂製品の受注も順次拡大していったため、1990年、岐阜県大垣市浅西に樹脂成形加工・表面処理加工・組付け加工の一貫生産工場として東大垣工場を建設し、樹脂事業の拡大を図りました。


革新の時代
1992年11月 TPM活動によるものづくり力の強化
バブル崩壊とともに景気の低迷が深刻化し、会社の存続をかけた製品コストの見直しと、新しい主力製品づくりの具現化が急務となっていました。当社は企業体質の強化をめざし、1992年11月、TPM(全員参加による生産保全)活動をキックオフしました。
人と設備の体質改善を図り、5Sと自主保全を中心とした効率的な製造現場を造ることがテーマのこの活動は、全員参加で行われ、1996年8月に「TPM優秀賞第一類」を受賞しました。この活動により当社の労働生産性や設備総合効率は見違えるように向上し、当社のものづくりの基本として今も継続的な活動が行われています。



1999年9月 次世代バルブのTPMS(タイヤ空気圧監視システム)を発表
1999年9月、当社が長年培ってきた保有・固有技術をベースに開発した車載電子部品:TPMS送信機を発表しました。バルブメーカーとして、バルブに付加価値を付けた新製品開発の歴史は古く、1960年代に遡ります。1990年代から半導体式の開発が行われるようになり、小型圧力センサーが廉価で調達可能となったことも、次世代バルブと言われるTPMS送信機の開発を加速させました。
そうした中、2000年11月に米国で自動車の安全性に関する規制「TREAD法」が成立。北米市場の自動車にTPMSの装着が義務づけられ、その様相が一変しました。既にTPMSを発表していた当社にとっては、突然巨大なマーケットが出現し、事業拡大のビッグチャンスが到来したのです。2000年から事業化したTPMSの売上高は2007年まで年々倍々ゲームで伸びていき、現在では当社の中核を担う製品へと大きく成長を遂げました。

■TPMS(タイヤ空気圧監視システム)とは?
TPMSは、タイヤの空気圧や温度を送信機内のセンサーで直接測定し、その情報を無線で車体側の受信機に送り、ドライバーに異常を知らせるシステムです。
送信機、受信アンテナ、受信機、表示器からなるこのシステムの内、当社は送信機の生産を行っています。
1999年7月 米国でプレス・樹脂事業を拡充
トヨタ自動車を始めとする日系自動車メーカーの米国生産の拡大基調と、部品の現地調達の進展傾向から、1999年7月、米国にプレス製品の生産会社「Pacific Manufacturing Ohio Inc.」を設立しました。
日系プレス部品メーカーの米国進出としては後発でしたが、顧客の急成長に恵まれたこともあり、その後樹脂製品へと事業を拡大。2001年には㈱高木製作所との合弁で「Takumi Stamping Inc.」を設立し、米国でのプレス・樹脂事業の拡充を加速させました。


2000年10月 家電事業拡大に伴う中国進出
エアコンのインバータ化に伴って、当社は業界に先駆けて冷媒膨張量をリニアに制御する「電動膨張弁」を開発し、家電事業の主力製品として生産を行っていました。
当時中国では、ルームエアコン用の電動膨張弁は日本からの輸入に頼っており、エアコン業界の海外生産シフトが加速する中、世界最大の生産国・市場である中国での現地生産が急務となり、2000年10月、「青島太平洋宏豊精密機器有限公司」を合弁で設立。中国初の電動膨張弁生産会社を立ち上げました。


グローカル経営
2002年11月 グローバル生産累計で、バルブコア100億本、タイヤバルブ50億本達成
2002年11月、当社の創業以来の主要製品であるバルブコアが、海外生産を含めた生産累計100億本、タイヤバルブが50億本を達成しました。長さ約2cmのバルブコアを100億本並べると28万km、これは地球7週分の長さに相当します。この生産本数は、創業から72年かけて達成した偉大な記録ですが、この記録を樹立できたのは、オンリーワンの技術で他社に追随を許さなかったことをはじめ、最新鋭設備の導入、北大垣工場・美濃工場の誕生と、自動組立機の開発などにより、画期的に生産性が向上した結果といえます。また、1984年から1989年にかけて、台湾・韓国・アメリカ・タイの4つの海外拠点を立ち上げ、グローバル生産・販売体制を築きあげたことが、更に生産数を加速させました。

2004年9月 韓国に「太平洋エアコントロール工業株式会社」設立
韓国でのタイヤバルブ事業が急速に衰退傾向を見せる中、韓国事業の将来を考え、2004年9月、カーエアコン用コンプレッサのアルミダイカスト部品の機械加工を行う新会社「太平洋エアコントロール工業株式会社」を設立しました。事業拡大に伴い、2007年7月には忠清南道牙山市に自前工場を取得し移転。その後も順調に業容拡大を続けています。
更に2010年1月には、一貫生産によるQCD向上を目的として、上流工程のダイカストの事業化を決定し、専用工場として第2工場を建設しました。ダイカスト事業は、韓国における新たな事業分野として今後の成長が期待されています。

プレス・樹脂事業の国内外拠点拡充
2005年頃から事業拡大をめざした大型戦略投資を積極的に実施しました。
海外では、2005年4月、台湾・米国に次ぐプレス事業第三の拠点として、中国天津市に「天津太平洋汽車部件有限公司」を設立しました。今後飛躍的な拡大が見込まれる中国市場を狙い、新たなグローバル生産拠点の拡充を図りました。
国内では、2008年6月、トヨタ自動車のエンジンオイル用「オイルパン」の全量生産を受けて、東大垣工場にプレス工場を増設。
オイルパンのプレス・溶接・塗装の一貫生産ラインを新設し、年間600万個の生産体制を整備しました。また、九州顧客の生産拡大に伴い、2006年12月福岡県小竹町に岐阜県外初のプレス・樹脂事業の生産拠点として「九州工場」を設立しました。


2008年10月 高精度プレス製品の生産体制強化
当社は2008年10月より、高精度プレス技術によるエンジン・トランスミッション部品の本格生産を開始しました。高精度プレスとは、冷間鍛造の持つ高精度・高機能・差圧成形を複合した加工技術で、当社が早くから着目し実用化した新技術です。
当社独自の工程設計によるネットシェイプ工法は、軽量化と低コストを実現し、環境に配慮したものづくりとしてお客様からも高い評価を得、オンリーワンのものづくりを具現化しています。

2010年5月 東北・中部・九州のプレス・樹脂事業三拠点体制を確立
2010年5月、宮城県栗原市にバッテリーケースとホイールキャップの生産を行う「東北工場」を新設しました。中部・九州に続く国内第三の自動車集積地として発展が期待される東北地区には、当社の主要顧客が相次いで新工場を建設。
プリウスをはじめとするハイブリッドカー用のバッテリーケースを生産している当社は、顧客の生産移管への対応と物流費の削減を目的に、急遽東北地区への進出を決断しました。


世界四極体制の確立
2011年に中国に新拠点、翌年にはTPMS販売拠点で初の欧州拠点設立
当社は、成長著しい中国自動車市場において更なる事業拡大を図り、グロー バル生産体制を強化するため、2011年11月、中国湖南省に自動車用プレス ・樹脂製品の新生産子会社を設立しました。
さらに、2012年11月には、欧州でのTPMS市場開拓のため、ベルギーに新たに同製品等の販売・アフターサービスを行う販売会社を設立しました。そのTPMSは、2014年1月にはグローバル生産累計1億本を達成しました。



2014年 中国、米国、タイに新拠点を相次いで設立し、海外生産体制強化を加速
2014年には、アジアにおけるTPMS販売の増加を見込み、中国初のTPMS生産拠点を設立し、日米中の三拠点体制を確立。米国テネシー州には新たにプレス製品の生産拠点を設立しました。さらにはタイにも新拠点を設立、プレス事業の日本・米国・中国・アセアン四極体制を整備しました(稼働は2018年)。



2018年8月 米国・フランスのSchrader社のバルブ事業を取得
2018年8月、当社は、米国とフランスで自動車・産業 機械用等のバルブを製造・販売しているSchrader グループ3社の全株式を取得し、子会社化しました。これにより、日本、 アジア、北米、欧州に生産・販売拠点を有する世界四極 体制が実現し、バルブ事業における世界のリーディング ポジション構築に大きく前進しました。


2020年10月 サステナビリティ経営の確立と、「PACIFIC 環境チャレンジ2050」の策定
2020年には世界的な新型コロナウイルスの感染拡大のなか、原価改善や固定費削減など足元固めを進めるとともに、地域社会支援を実施しました。また、持続可能な社会の実現のため、SDGsを踏まえたサステナビリティ経営の体制を整備し、2050年カーボンニュートラルを含む「PACIFIC環境チャレンジ2050」を掲げました。さらに、コア技術を活かした社会課題解決に資する新製品開発にも力を入れ、次世代モビリティ社会に向けた挑戦を進めています。



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発行日:2019/032018年12月11日~27日にかけて、岐阜新聞朝刊経済面に12回にわたり連載されました記事をまとめたものです。