太平洋工業80年のあゆみ

  • バルブコアのパイオニアとして
  • 戦時下の発展と波乱に満ちた戦後の再建
  • 工場再開と経営の近代化
  • 世界の太平洋をめざして
  • 経営の多角化
  • 国内拠点拡充と国際化
  • 革新の時代
  • グローカル経営

1941年~1950年 戦時下の発展と波乱に満ちた戦後の再建

沿革

1941年3月 桜井自動車工器株式会社を吸収合併し、タイヤバルブの生産を開始
1943年10月 軍需省の指定工場となる
1945年2月 ふじや毛織工業有限会社を吸収合併
1947年9月 パシフィック商工株式会社を設立
1949年4月 トヨタ自動車工業株式会社に自動車用プレス製品の納入開始
1949年9月 労働争議により工場閉鎖

バルブコアとタイヤバルブの一貫生産体制

タイヤバルブの構造。タイヤバルブの中にバルブコアが入っている。

タイヤバルブの構造。タイヤバルブの中にバルブコアが入っている。

合併届出書

合併届出書

バルブコアとタイヤバルブは、品質保持や価格安定という面からも一緒に製造するのが望ましく、タイヤバルブの総合メーカーをめざしていた太平洋工業は、1941年、東京のバルブメーカー「桜井自動車工器」を吸収合併し、バルブコアとタイヤバルブの一貫生産体制を確立しました。

軍需会社に指定

軍需工場として会社の規模は拡大。1943年の定期入社だけでもこれだけの社員がいた。

軍需工場として会社の規模は拡大。1943年の定期入社だけでもこれだけの社員がいた。

軍需省の高官を迎えて。後列から2番目が小川宗一

軍需省の高官を迎えて。
後列左から2番目が小川宗一

戦争が進むにつれ、自動車産業は航空機を中心とした軍需産業へと転換させられ、バルブ製品の需要は減っていきました。
当社は桜井自動車工器との合併によって航空機用リベットの製造を開始していたため、次第に軍需品製造を本格化させ、軍需工場としての色合いを濃くしていきました。空襲で全国各地の工場が焼失する中、戦火を免れていた当社は、終戦末期までただならぬ忙しさであったといいます。

労働争議による工場閉鎖

1945年に終戦を迎え、当時1,500名いた従業員はすべて帰郷し、疎開工場も閉鎖となりました。その後、会社再建の道を図りましたが、当社にも県内のトップを切って労働組合が結成され、1948年に労働争議が勃発。法定闘争が続いて経営は窮迫し、ついに1949年9月、当時の従業員300名全員が退職し、工場閉鎖に追い込まれました。

パシフィック商工の活躍

プレス製品第1号となったトヨペットSAのホイールキャップ

プレス製品第1号となったトヨペットSAのホイールキャップ

パシフィック商工設立当時の小川哲也

パシフィック商工設立当時の小川哲也

苦難が続いた戦後の再建時代にあって、太平洋工業の危機を救ったのが1947年に設立された「パシフィック商工」で、創設者はのちに3代目社長となる 小川哲也です。

「金属・繊維・雑貨など売れる物は何でも売ろう」「パシフィック商工自身で協力工場を使って製品を造ろう」と旗揚げした小さな会社は、若さとバイタリティに溢れ、戦後の荒波の中にあっても順調に成長していきました。

ついには、トヨタ自動車の協力工場としてプレス加工分野へ進出し、1949年にプレス製品第1号として、トヨペットSAのホイールキャップを納入。今日のプレス事業の礎を築く大きな役割を果たしました。

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