太平洋工業80年のあゆみ

  • バルブコアのパイオニアとして
  • 戦時下の発展と波乱に満ちた戦後の再建
  • 工場再開と経営の近代化
  • 世界の太平洋をめざして
  • 経営の多角化
  • 国内拠点拡充と国際化
  • 革新の時代
  • グローカル経営

1930年~1940年 バルブコアのパイオニアとして

沿革

1930年8月 太平洋工業合名会社を設立し、自動車用バルブコアの製造を開始
1934年10月 バルブコアの空気もれ検査機を開発
1936年8月 バルブコアの実用新案権を取得
1938年4月 太平洋工業株式会社に改組し、工場を大垣市美和町に新築移転

「太平洋工業合名会社」の誕生

創業当時の太平洋工業合名会社。大垣市西外側町の7軒長屋を改造した工場。

創業当時の太平洋工業合名会社。大垣市西外側町の7軒長屋を改造した工場。

創業者の小川宗一。経営者として天性ともいうべき資質を持ち、太平洋工業発展の礎を築いた。

創業者の小川宗一。経営者として天性ともいうべき資質を持ち、太平洋工業発展の礎を築いた。

創業当時のバルブコア

創業当時のバルブコア

創業者の小川宗一は、1930年、29歳の時に、一宮市で毛織業を営む兄の出資を得て、資本金5,000円、従業員10人で、岐阜県大垣市に「太平洋工業合名会社」を設立しました。

国内の自動車生産台数はわずか450台、自動車部品のほとんどが輸入品に頼っていた時代に、自動車産業の先見性を見極め、日本で初めて自動車用バルブコアの国産化に踏み出しました。

「空気もれ検査機」の開発

バルブコアの製造風景

バルブコアの製造風景

自社開発した空気もれ検査機。できあがったバルブコアに、ゴムチューブから空気を送り込み、水中で気泡がでないか検査した。

自社開発した空気もれ検査機。できあがったバルブコアに、ゴムチューブから空気を送り込み、水中で気泡がでないか検査した。

創業当時、技術もノウハウもない中で、輸入品のバルブコアを真似て造ることは容易ではありませんでした。空気という目に見えないものが相手のため、「バルブコアは精密時計を造るよりむずかしい。それを日本で造れるわけがない。」と外国人技師から言われるほど、技術的にも難しいものでした。

製品化までには長く苦難の道のりが続きましたが、1934年にようやくバルブコアの「空気もれ検査機」を開発したことによって、品質の均一化が保てるようになりました。

バルブコアの「実用新案権」を取得

実用新案出願公告

実用新案出願公告

バルブコア頭部を改良し、チェックバルブの名で特許局に登録された。

バルブコア実用新案登録証
バルブコア頭部を改良し、チェックバルブの名で特許局に登録された。

中国・東南アジアへ輸出したバルブコア

中国・東南アジアへ
輸出したバルブコア

1936年、バルブコアの軸を固定させる頭部のブリッジ開発で実用新案権を取得したことにより、後発メーカーの進出を抑えて国内市場を独占し、海外への輸出も拡大。世界水準の品質・技術を確立し、バルブコアのパイオニアとして、飛躍的な発展を遂げていきました。

「太平洋工業株式会社」に改組

1938年頃の工場内作業風景。

1938年頃の工場内作業風景。

大垣市美和町に土地を購入し、新築した本社工場。「女工手募集」と書かれている。

大垣市美和町に土地を購入し、新築した本社工場。「女工手募集」と書かれている。

既に国内市場を独占していたバルブコアは、需要が拡大し、殺到する注文をさばききれなくなっていったため、1938年、岐阜県大垣市美和町に新工場を建設すると同時に、資本金15万円の「太平洋工業株式会社」に改組しました。

当時は女性社員が多く、「嫁が欲しければ太平洋へ行け」と言われるほどだったといいます。

1938年頃から使用していた製品カタログ

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